2024.11.06
アジアのノーベル賞 マグサイサイ賞
2024年8月、ラモン・マグサイサイ賞を日本のアニメ作家宮崎駿が受賞しました。これを受けて、国際交流基金は特に人気の高いジブリ作品6本を、なんと無料でマニラで劇場公開することに。11月の週末2日間、1館だけの大盤振る舞いですので、このプラチナチケットを確保できた人はとても幸運です。
マグサイサイ賞はフィリピン第7代大統領の名前を冠して1957年に設立された、アジアのノーベル賞とも称される権威ある賞です。アジア地域でそれぞれの分野の功績をたたえることを目的に、毎年複数名が選出されています。日本での知名度はそれほどでもないようですが、過去には黒澤明やマザーテレサも受賞しています。ラモン・マグサイサイ大統領とはいったいどんな人だったのでしょうか。
戦場から政界へ
マグサイサイは太平洋戦争中、ゲリラとして日本軍と戦い、冷戦中には反政府勢力と化した共産ゲリラと戦いました。共産勢力が脅威であった当時、民主主義を守るために政治家を志すようになります。国防長官を経て、ついに大統領選への出馬を決意しました。政治活動中に志を同じくする仲間が拷問の末、惨たらしく殺害されると言う事件が起きました。彼は知らせを耳にするや現地に駆け付け、警察署前に放置された亡骸を抱え上げ、自ら霊安室に運び入れたそうです。この事件は後に映画化され、投票動向にも影響を与えたことでしょう。
第7代大統領になってから
アメリカの支援もあって大統領の座に着いた彼は、反共軍事同盟であった東南アジア諸国連合に加盟し、その親米反共姿勢を貫きました。就任式で初めてバロンタガログという民族衣装を着たことでも有名です。彼はマラカニアン宮殿を国民に開放し、目安箱を設け国民の意見に耳を傾け、土地を持たない小作農に土地を与え、ダムを整備して灌漑を整え、国民のために力を尽くしました。日本との関係では、陰惨な大戦を最終的に締めくくる賠償協定に、鳩山一郎首相と最終的に合意し、その後の日比友好の礎となりました。
突然の悲劇
人気の頂点にあり再選も間違いないと思われていた、まさにその時、に飛行機事故によって49歳の若さでその生涯をおえました(1957年3月16日)。国民の深い悲しみは想像に難くありません。在任中に決して私腹を肥やすことはなかったと言われ、マニラにも持ち家はなく、地元サンバレスのわずかな土地以外には貯金もほとんど残されていなかったそうです。
功績をたたえて
生前に親交があったロックフェラー兄弟財団は彼の死を悼み、アジア人の顕彰を目的としたマグサイサイ賞設立のために出資を決めました。その清廉潔白で知られる故大統領の名を冠した賞は、こうして長くフィリピンを含むアジアの人たちに記憶されることになったのです。
マグサイサイ賞の精神
顕彰の対象はアジアの人々のために無私の奉仕を行い、革新的リーダーシップを発揮したアジア人もしくは団体です。まさに生前の大統領の行いにならったものです。当初は政治、社会奉仕、地域の指導者など明確なカテゴリーがありましたが、2009年からは特にこの枠にこだわっていないようです。現在までに、22か国から326人、27団体に授与されています。
まとめ
67年前にアジア人に対象を絞った賞を世界に向けて創設したフィリピンの先見性には敬意を抱かずにはいられません。現在にいたるまで、マグサイサイが抱いた理想を広く伝える役割を果たしています。さて大統領選ともなれば8割を超える投票率を誇るフィリピンの国民性です。国民の政治への関心はとても高いといえる一方で、残念なことに為政者の腐敗と政治家同士の泥仕合については繰り返し報じられています。
マグサイサイ賞は理想と現実に踊らされてばかりいるフィリピン人たちに、かつて民衆のために尽力した大統領がいたことを誇りをもって伝えているのです。
執筆者 上村康成 From TDGI東京オフィス
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